
「生と死」は人間にとって永遠のテーマだと思います。何故人は生まれてくるのか、死ぬと
どうなるのか。
古代思想や哲学は、このテーマを取り上げ、分析検討・吟味し、人々に説いてきました。
当方は大人になってから古代インド哲学(仏教の産みの親と言える)を、10年間専門家の元で勉強しました。サンスクリット語の原語で、有名な書物を読破した思い出は大切なものとなりました。
お彼岸の今日は、チベット仏教の古典的書物である「チベットの死者の書」から、仏教的な観点で人は死後どこへ行くのか、見ていきます。
まず、人は肉体をこの世においてからは(つまり死後)、中有または中陰(チベット語でバルド)という、この世と再生界(生まれ変わること)の中間の区域に行くようです。

インド哲学も仏教もそうですが、人にとっては「解脱」が重要な目標の一つとされています。人間は永遠に再生・輪廻を繰り返すが、それはあくまでもこの世における「生老病死」という、四つの苦の繰り返しに過ぎない。この永遠の輪廻から脱却し、再生の必要がない天界に一歩でも近づくよう、自らを戒め清らかな心を持つことが解脱につながる、という思想です。
これはキリスト教やスピリチュアリズムと大きく違う部分で、西洋では、キリストが復活したように、再生輪廻は肯定的に見られていると思います。
では、死者の書から、ポイントを抜き出していきます。固有名詞は説明が長くなるので割愛してあります。
P15
多くのチベット経典や秘密経典に「(死後、人は)三日と半日の間、失神状態が続く」とある。その間、死者に「光明のお導き」が唱えられなければいけない。
P26
あなたが死ぬと、「私は死んだ」という、例のものがやってくる。この世界から外へ行くのはあなた一人ではないのだ。死は誰にでも起こることである。この世の生に執着や希求を起こしてはならない。起こしたとしても、この世にとどまるのは不可能である。とどまろうとすると、あなたは輪廻しさまよい続けるほかはないのだ。執着してはならない。貪り求めてはならない。
P29
死後失神から目覚めた一日目:失神から目覚めると、あなたは中有界にいることを知る。光あふれた姿が現れる。あふれる光を持った一人の如来が近づいてくるので、あなたは受け入れなければいけない。しかし薄明りも別に存在する。これは解脱の道を妨げる場所なので近づいてはいけない。
二日目:幾人かの光あふれた神さまが近づいてくるので、あなたは受け入れなければいけない。薄明りもあるが、近づくと地獄に落ちるから行ってはいけない。
三日目:幾人かの光あふれた如来が近づいてくるので、あなたは受け入れなければいけない。薄明りの方に行くと、解脱することができなくなる。
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死者が悟りを開いて良き世界へ行くまで、この状況が何日も展開されます。
悟りとは、これらの光あふれた存在も自分の意識の一部である、つまり自分も光あふれた存在の一部でありうることを悟ることです。
死後に現れる、毒々しいケダモノのような存在も自分の意識の一部だが、それらを恐れてはいけないし近づいてもいけないのだそうです。
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P67
密教の修行を行った者は迷うことなく、解脱した者達の世界に到達する。
P92
「仏の世界を見ることができますように」と強く祈念すれば、どれだけ罪が大きい人でも、悪い業(カルマ)が沢山残っている人でも、解脱できないことはない。
P117
自分が残した財産にこだわってはならない。財産の対処に怒りをもつと、地獄や餓鬼の世界に生まれ変わる。後に残した財産に対する執着や求める気持ちは捨てて、完全に投げ出すが良い。きっぱりと諦めるべきである。あなたの財産を誰が受けることになろうとも、それを惜しんではならない。進んで与えるべきである。
P120
中有界では、あなたはよりどころとなる身体を持たないので、敏速に動くことができる。善い思いも悪い思いも、強力なものとなるから、悪い思いを持ってはならない。常に良い思いを心にもつべきである。
P122
あなたの生前の行為の結果としての業(カルマ)の力によって、六道のどこに生まれ変わるかが決まる。
六道:地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天
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このあと、死者の書には「再生」を防ぐための内容が書いてありますが、また別の機会に紹介します。
六道というのが出ましたが、スピリチュアリズム的な観点からは、あの世には地獄も餓鬼もなく、人間は動物に生まれ変わることもない、と言います。もしかしたら、仏教では悪い事をしないよう、戒めとして比喩的に使っているのかもしれません。
これらの教えは貴重なものですが、現代人は「死んだら終わり」と考える人が多いように思えます。これは18世紀~19世紀から台頭した、西洋の唯物論(見えない物などあり得ない)や実証主義(証明できない物は事実でない)が大きく影響しています。いわゆるインテリや学者には、霊界や霊を信じない人が多いのはそれが理由ではないでしょうか。
「死んだら終わり」と考えれば、今を楽しむしかないという刹那的思考になり、ありとあらゆる欲望追求に走りやすくなります。これは支配する側にとっては、有難い傾向です、愚民が増えれば増えるほど支配しやすくなりますから。
現代は浮遊霊が非常に増えて、この世に生きる人達に迷惑を及ぼしているといわれます。自分が死んだということに気が付かず、この世に執着して中有にも行けずさまよっている霊が浮遊霊です。何百年も、本来の自分の故郷である中有に帰れないのは悲劇といえます。
当方も、浮遊霊がもたらす迷惑に巻き込まれたことがあります。
インド人のヒーラーで日本にも来たアンマさんは、「死は一つの句読点、それからまた新しい人生が始まる」と言っています。死んだら終わりではないのは確かです。
いつも記事を興味深く拝見させてもらっています。
>もしかしたら、仏教では悪い事をしないよう、戒めとして比喩的に使っているのかもしれません。
自分はゴータマさんが当時のヒンドゥー教・バラモン教的な価値観に合わせて説かれたんじゃないかなあ、と勝手に思っています。対機説法ってやつですかね。